これまでのこと。勉強しつつ

  僕は勉強が嫌いではないほうだ。学校に行っていたときも、体育や美術なんかはてんでやる気の出るものではなかったけれど、椅子に座って黒板に向かう座学は不思議と苦にはならなかった。

 家にいると、誘惑が多い。あと、机の上が散らかっていてげんなりする。ので、集中したいときにはカフェとかファミレスに行って参考書を開いたりしている。ざわざわしてて静かな環境では無いんだけど、これがまた不思議と集中力に繋がるんだよね。イヤホンを繋げて音楽を聴きながらの勉強も楽しい。

 

 中学生の頃の僕は殆ど学校には行っていなかった。週一でカウンセラーの先生のところに通っていただけだ。僕は小学生の5,6年生辺りから中学3年生までの約5年間、不登校だったのだ。

 教養が身についていないどころの話ではなかった。常識を知らない。地理を知らない。例えば、自分が住んでいる千葉県と隣の東京都、あとは北海道と沖縄くらいしか都道府県の場所を知らない。平成以外の元号をもちろん知らないし、世界にはロンドンという国があると思っていた。

 義務教育とは偉大だ。いまになって、そう思う。あと、後悔。いじめにあっていたわけでもない。ただ単に、風邪で数日学校を休んだときに味を占めて、ちょっと仮病して、それがずるずると5年間続いたのだ。間違いなく悪いのは自分。だけど、もしあの時学校に行っていれば。部活をして、友達と遊んで、そんな青春を送っていたのなら、今とこれからの未来は随分と変わっていたような気がして、無性に悔しさを感じる。

 高校に入ってからは学校も休まず、しっかりと勉強には励んだつもりだけれど、こんどは友達と遊んだり恋愛したりするのが楽しくて、身が入らないことも多かった。結局入ったのは偏差値40代後半程度の平凡なありふれた大学。その大学も結局辞めることになるけど、それは自分で決めたことだ。

 

 流行りの人工知能にも手を出してみたくて、近頃は数学の勉強に手を付けている。中学数学からはじめ、いまは高校数学Ⅰに入ったところだ。要求されるレベルにはまだまだ届かないけれど、着実に基礎固めを進めていきたい。

 

年上のお姉さんの消失

 いいよね、年上のお姉さん。昨今の奥手な若者の男子にとっちゃ、会話とか、付き合いにおいてリードしてくれる女性というのは本当に頼りになって、話していると惚れてしまいそうになったりしたり。話題の『君の名は。』は僕も観に行ったのだけど、作品に出てくる奥寺先輩が本当に理想的なお姉さんって感じで、劇中の中ではいちばん好きになったキャラクターだった。

 そんな年上のお姉さんだけれど、彼女たちは少しずつ存在数が減っていく(二次元、三次元に関わらず)。というのも、僕らが年を食っていくからだ。

 「年上のお姉さん」の条件ってなんだろう。まあ、字面からそのまま意味を取れば、

①年上であること

②お姉さんであること

①はそのままの意味として、②の「お姉さん」ってなんだろう。年上の女性はみんなお姉さんと考えてよいものか? 条件は? ちょっと考えればすぐ答えは出る。それ即ち、美人であること。重ねて言えば、好みであることだと思う(顔立ち、性格含めてね)。だから、もうちょっと正確に言えば「年上のお姉さん」ではなくて「年上のタイプなお姉さん」ってことになるんだけど、まあそれは置いといて。

 僕はいま20歳だ。だから、もう20歳以下の女性は当てはまらない。そして、タイプな人ってのは、人それぞれ好みがあるから主観的に判断されるものだと思うけど、僕の場合、どんなに美人で可愛くてタイプな人でも30台中盤あたりからはお姉さんとは呼べないと思う。だから、僕にとって「年上のお姉さん」の定義は20~35歳くらいのタイプな女性ってことになる。

 まあ、これだけ聞くと別に少なくないように感じる。でも、昔の自分を思い返してみると、空しさを感じるなあ。

 小さい頃、周りにいた女性は皆お姉さんだった。若い10代の女の子も、あの時はちょっと大人っぽいお姉さんだった。町で見かける女の子、お店のバイトの女の子、彼女たちみんなが年上だったあの頃って、なんとも言えぬ安心感があった気がする。言葉にしづらい。

 いまの僕は20歳。来年には21歳。22歳。1年経つごとに1つ歳を取るわけだけど、そうすると、いつか「年上のお姉さん」は消えていなくなってしまう。10代のうちに「年上のお姉さん」に可愛がられるという夢は叶わなかったけれど、20代に踏み入れたいま、焦りを持って「年上のお姉さん」と色々なお付き合いをしていくように努力すべきなのだろうか。

 

  近頃は年下に母性とかお姉さん気質を求めるヲタクがいるって聞くけれど、その気持ちはすごくわかる。

耳鼻科に行ったりした話

 昨日、10日ぶりくらいに外に出た。夜の鼻づまりや、稀に起こる鼻炎の症状(鼻水が滝の如く流れる)が酷いために、耳鼻科にかかったのだ。カメラを穴に突っ込まれたり、キセノン光と呼ばれるなにやら原理のよくワカランものを首に照射されたり、薬の噴射(ネブライザーというらしい)をしたり。うーむ、色々なものがあるのだなあ。

 さて、このネブライザーが実に鼻に効くのだ。「普通の人はこんなにも快適に鼻で息をしてるのか」なんて思ったりして。これ、実は家庭用のものが販売されているらしく、1万円前後から買えるそうな。詳しくは調べてないけど、興味がある。耳鼻科で貰える薬で治ってるうちは必要なさそうだけれども。

 外に出たおかげで、だいぶ調子が良くなった。考えもまとまるし、やる気も出る。前向きに出来事を考えられる。やっぱり引きこもってるとダメね。

 

 そういえば、ブログタイトルを変更しようと思っている。「自殺」というワードを抜きたいと考えているんだ。

 開設当初の気持ちを刻んでおくのは最初の記事で充分。タイトルにこれがあると、無意識に負のイメージを受けてしまいそうだがら。

 

何人かの人たちが読者登録をしてくれた。嬉しいです。

 

 

 

 

何もやる気がせず……

 気分にかかわらずやるべきことはやるべきだ、と前回書いたものの結局無気力が続いて何も手付かず……。

 いまやるべきことは数学の勉強とネットワーク系のベンダー資格「CCNA」の勉強。なるべくコンスタントに進めていくつもりだったが、無気力な日は全く手を付けず、調子の良い日に一気に進めるという方法でなんとか調整している。

 が、ここ一週間ほど全く手付かず。親との口論になった一件からは一度も取り掛かっていない。やることといえばゲームばかり。なんだかもうダメな気がするなあ。

気分と行動――気分と自身を切り離して

 人の行動は気分を動かし、精神に刺激を与える。運動をすれば清々しい気分になるし、勉強をすれば自尊心が芽生える。大体の人がそうなんじゃないかな? 少なくとも、僕はそうだ。

 そして、気分もまた行動に影響を与える。元気な人は社会的な活動に、それ相応に身が入るというものだ。鬱な人は逆で、そういうのに積極的には参加しない。僕自身の感覚だが。

 前に、検査をさせられた。親が僕の発達障害を疑って、病院に連れられたんだ。やたら時間のかかる検査で、初診から二ヶ月ほど経ってようやく結果が出た。総合的に判断して、僕は発達障害ではないと診断された。先生曰く「しっかりとした受け答えもされるし、人と目を合わせながら話すことができる。テストの結果から見ても、発達障害ではないであろう」とのこと。僕自身も、自分が発達障害であるなんて微塵も思ったことはないし、当然だと思った。

 ただ、同時に受けた別のもので、ある種性格診断のような検査があったのだが、これに対するアドバイスが、確かになあと感じた。

「気分に左右されず、決めたことをやること。気分が自身を表していると考えないこと。時折湧く『ダメな気分』こそが戦うべき相手と考えること」

 僕は気分の動きが激しい。鬱なときは死にたいだとか、どうせダメだ、自分はダメだなんて考えるくせに、良い気分のときは、努力した先にある輝かしい未来のことばかり考える。先生はそこを見抜いて、だからこそ、気分と自身を切り離して行動するよう僕に言ったのだろう。

 そうすべきだと納得し、そうしようとも思ったが、結局のところ実現していない。努力はするが、相変わらず、僕は気分に左右されっぱなしだ。気分こそが戦う相手。そう言い聞かせて、少しずつ変えることができたら嬉しいのだが。

 

 ところで、記事を書こうとするとき、なんとなく後ろめたさがある。このブログを開設したときの感情、記事を書いていたときの気持ちが思い出されるから。僕の脳内で「記事を書く」という行動と「鬱」な感情がリンクしているからだと思う。

 僕はいま、死にたいとは思っていない。大きく僕の中で蔓延っていた希死念慮が、今はすっかりしぼんでいる。だから、これは精神衛生的に良くないことだ。自分の中での「ブログ=鬱」というイメージを払拭して、書くことが楽しいように、毒素を吐いてるようなイメージを持っていきたい。気分の良いとき、自分のブログのタイトルを見た瞬間にたちまち気分が底まで落とされるようなら、ブログなんてやめた方がいいんだと思う。

「死ぬ」と「生きる」

 ブログを始めてみて感じたのは、自分の気持ちや考えを文章に表すことは、心が少し落ち着き、整理されるということ。よく聞くことではあるが、実際に自分で体感してみるとなるほど、たしかにその通りだなと思う。

 それと、自分が書いたブログのアクセス数というのはやはり気になるもので、これを上げることで日々の活動のモチベーションに繋がるのであれば、と思い、ブログ村なんかにも登録をしてみた。増えればいいな。

 昨日は「私」という一人称を使ったが、なんとなく落ち着かない。「僕」の方がしっくり来そうだ。僕、僕、僕……うん。まだ(仮にも)学生という立場上、あまり「私」という言葉を使うことはない。就活が始まるまでは、他の人も殆どそうだと思う。というわけで、「僕」で進めていく。

 

 死にたい、なんて気持ちはよく湧いてくるものだが、昨日の僕はその感情がこれまでの人生の中で一番大きかった、ピークだったような気がする。高校までの間、ぼんやりと死を意識したことはあった。けれど、それも実際にどういう場所でとか、どんな方法でとか、具体的に検討したことはない。いや、無いわけではないのだが、調べていくうちに「痛そうだな」なんて考えてすぐに気持ちが落ち着いていた。でも、昨日の僕は確かに場所を考えた。方法を考えた。死ぬ前には何かするべきことはあるかと考えて、2chで自殺する前にすべきことを聞いてみたりなんかした。部屋の掃除をしてみたり、包丁を手に持ってみたりした。行動してみると、死に近づいているような気がして、少し嬉しかった。

 2chに立てたスレで、親の金を持ってどこか旅に出たりしたらどうかってレスがあって、やってみたいなと思った。僕はいままで学校をサボったり、塾へ行かずに友達の家へ親に無断で泊まりにいったりなんてことはしてきた。けれど、「親の金を盗んで遠出する」という経験は無く、それはとても魅力的な計画だなと感じた。背徳的な行動が、言葉に表せぬ快感を生み出すのは知っている。だから「明日、親の財布からお金を持って夜中に抜け出そう」なんて考えて、昨日はベッドに入って、眠りについた。けれど、今朝(昼過ぎだけど)起きたときに思ったのは「今日はやめておこう」という考えだった。

 結局のところ、自殺とか、逃避行とか、僕にとっては一過性の考えなんだと思う。少し冷静になると「現実的に考えろよ」とか「おとなしく入学に向けて勉強しろ」とか、そういう考えが浮かんでくる。

 んで、ぐるぐる考え出す。「死ぬ」と「生きる」の二つの道の岐路に戻って、二つの見えない先の方を見ようとしている。「考えるより先ず行動」という言葉を聞くが、まさにその通り。「今日は何もしなかったな」とか、「死ぬんだったら別に勉強しなくてもいいよね」なんて考えちゃったりして、色々思案に暮れてはため息吐いて、その繰り返しが延々と続くんだから、まずは考えるのではなく行動をすることが大事なんだろう。そして、その行動の中で何かを発見して、それが生きていく中での夢中になれることなら、なおさら生に希望が持てる。だから「先ず行動」なんだと思う。少し前までは、僕もこの考えを軸に勉強に励んでいたんだけどなあ。

 

 

 

自殺とか、決意とか

 はじめまして。

 どうも私は、自殺願望があるようだ。

 日々生きていく中で、気づけば自殺を考える瞬間がある。残された両親や親友がどんなことを考えるのか、想像している。それは、精神的に参っているとき。考えにふけているときにふと、訪れる。

 

 私は現在20歳。大学一年生だ。昨年の4月に現役入学したものの、同年9月頃から休学を申請し、約1年程、実家で過ごしている。バイトもせず、勉強も殆どせず、社会的な活動を何もせずに過ごしている。

 人と声を交わすのは、SkypeやDiscordなんかの通話ソフトで高校時代の友人と会話するときや、買い物をするときに店員と交わすやり取り、そして家族で他愛のない話をするときくらい。ネットでよく聞くような、「人と話をしなさすぎて声の出し方がわからない」なんて状況に陥ってはいないが、ふと懐かしい友人と出会った時、同年代の人たちにはいま何が流行っているのか。お酒の飲み方や、頼み方なんかがわからずに恥をかいてしまうのでは、などの思考がよぎることがある。そんな時、自分を情けなく感じる。

 友人たちには、そういった自分をさらけ出したことは一度もない。単位に追われ、課題に追われ、さりげなく、忙しいなあ、彼女が欲しいなあ、なんていいながら、話に花を咲かせる。そんな大学二年生を演じている。

 

 約1年程、本を読んだり、ゲームをしたり、適当に外をブラブラしながら、惰性で過ごしていた。そして、今年の9月頃。ふと、IT系専門学校へ入ろうかと考えた。かねてから情報系の勉強や仕事には興味を持っていたのだ。我が家は裕福であり、学費もさして問題はなかった。

 ただ、大学を辞めることには、先の見えぬ恐怖があった。「大学中退」という言葉が、常に私の頭の中でぐるぐると回っているのだ。学歴。履歴書。就活。大学を中退して上手くやっていける人間が世にどれだけいるのだろうか。既定のレールから外れた人間は、レールの端、崖っぷちで歩くことを強いられている。

 気分が鬱でないときは、今後の人生について前向きに考えることができる。ここ最近、ずっと調子が良かった。大学中退を本気で考え、9月からほとんど「鬱でないモード」であった私は、来年から専門学校で頑張ろうと意気込んでいた。

 大学入学当初、法学部生であった私は、入学前に予想していた勉強内容と、実際に行われる講義の内容とのギャップによって、勉強のモチベーションが著しく低くなっていた。同じ轍は踏まぬと、9月下旬頃、私は専門で指導される勉強と、それを学ぶことで取得できる資格の参考書を買った。入学前に軽く内容に触れることにしたのだ。そして、これは自分の学びたいことだと確信を得た。昨日に至るまで、少しずつ勉強もした。

 先ほど、親と軽く口論をした。そのときふと急に、気分が「鬱モード」に切り替わるのを感じた。そして同時に、全てがどうでもよいと感じるようになった。死んでしまおう、自殺してやろう、と。

 あれだけ意欲的であった勉強も、専門学校に入って人生再出発してやろうという気も、なにもかもが失せて、どうでもよくなる。自分でも恐ろしいほど、簡単に消えてしまった。

 こんな風に育てた親が悪い。環境が悪い。運が悪かった。なんて、自分の人生の責任を自分の外に追いやって、いま、私は死を決意しつつある。

 

 なんとなく、久しぶりにブログを書いてみたくなったので、書いてみた。書きたいことを書き殴って、非常に読みにくいとは思うが、許して欲しい。

 これを書いている途中、少しずつ頭が冷静になっていくのを感じた。死の決意、なんて書いてみたが、死ぬ勇気は徐々に薄くなっている気がする。

 これからも、少しずつブログで感じたこと、考えることなんかを書いていこう。気が向いたら。