気分と行動――気分と自身を切り離して

 人の行動は気分を動かし、精神に刺激を与える。運動をすれば清々しい気分になるし、勉強をすれば自尊心が芽生える。大体の人がそうなんじゃないかな? 少なくとも、僕はそうだ。

 そして、気分もまた行動に影響を与える。元気な人は社会的な活動に、それ相応に身が入るというものだ。鬱な人は逆で、そういうのに積極的には参加しない。僕自身の感覚だが。

 前に、検査をさせられた。親が僕の発達障害を疑って、病院に連れられたんだ。やたら時間のかかる検査で、初診から二ヶ月ほど経ってようやく結果が出た。総合的に判断して、僕は発達障害ではないと診断された。先生曰く「しっかりとした受け答えもされるし、人と目を合わせながら話すことができる。テストの結果から見ても、発達障害ではないであろう」とのこと。僕自身も、自分が発達障害であるなんて微塵も思ったことはないし、当然だと思った。

 ただ、同時に受けた別のもので、ある種性格診断のような検査があったのだが、これに対するアドバイスが、確かになあと感じた。

「気分に左右されず、決めたことをやること。気分が自身を表していると考えないこと。時折湧く『ダメな気分』こそが戦うべき相手と考えること」

 僕は気分の動きが激しい。鬱なときは死にたいだとか、どうせダメだ、自分はダメだなんて考えるくせに、良い気分のときは、努力した先にある輝かしい未来のことばかり考える。先生はそこを見抜いて、だからこそ、気分と自身を切り離して行動するよう僕に言ったのだろう。

 そうすべきだと納得し、そうしようとも思ったが、結局のところ実現していない。努力はするが、相変わらず、僕は気分に左右されっぱなしだ。気分こそが戦う相手。そう言い聞かせて、少しずつ変えることができたら嬉しいのだが。

 

 ところで、記事を書こうとするとき、なんとなく後ろめたさがある。このブログを開設したときの感情、記事を書いていたときの気持ちが思い出されるから。僕の脳内で「記事を書く」という行動と「鬱」な感情がリンクしているからだと思う。

 僕はいま、死にたいとは思っていない。大きく僕の中で蔓延っていた希死念慮が、今はすっかりしぼんでいる。だから、これは精神衛生的に良くないことだ。自分の中での「ブログ=鬱」というイメージを払拭して、書くことが楽しいように、毒素を吐いてるようなイメージを持っていきたい。気分の良いとき、自分のブログのタイトルを見た瞬間にたちまち気分が底まで落とされるようなら、ブログなんてやめた方がいいんだと思う。

「死ぬ」と「生きる」

 ブログを始めてみて感じたのは、自分の気持ちや考えを文章に表すことは、心が少し落ち着き、整理されるということ。よく聞くことではあるが、実際に自分で体感してみるとなるほど、たしかにその通りだなと思う。

 それと、自分が書いたブログのアクセス数というのはやはり気になるもので、これを上げることで日々の活動のモチベーションに繋がるのであれば、と思い、ブログ村なんかにも登録をしてみた。増えればいいな。

 昨日は「私」という一人称を使ったが、なんとなく落ち着かない。「僕」の方がしっくり来そうだ。僕、僕、僕……うん。まだ(仮にも)学生という立場上、あまり「私」という言葉を使うことはない。就活が始まるまでは、他の人も殆どそうだと思う。というわけで、「僕」で進めていく。

 

 死にたい、なんて気持ちはよく湧いてくるものだが、昨日の僕はその感情がこれまでの人生の中で一番大きかった、ピークだったような気がする。高校までの間、ぼんやりと死を意識したことはあった。けれど、それも実際にどういう場所でとか、どんな方法でとか、具体的に検討したことはない。いや、無いわけではないのだが、調べていくうちに「痛そうだな」なんて考えてすぐに気持ちが落ち着いていた。でも、昨日の僕は確かに場所を考えた。方法を考えた。死ぬ前には何かするべきことはあるかと考えて、2chで自殺する前にすべきことを聞いてみたりなんかした。部屋の掃除をしてみたり、包丁を手に持ってみたりした。行動してみると、死に近づいているような気がして、少し嬉しかった。

 2chに立てたスレで、親の金を持ってどこか旅に出たりしたらどうかってレスがあって、やってみたいなと思った。僕はいままで学校をサボったり、塾へ行かずに友達の家へ親に無断で泊まりにいったりなんてことはしてきた。けれど、「親の金を盗んで遠出する」という経験は無く、それはとても魅力的な計画だなと感じた。背徳的な行動が、言葉に表せぬ快感を生み出すのは知っている。だから「明日、親の財布からお金を持って夜中に抜け出そう」なんて考えて、昨日はベッドに入って、眠りについた。けれど、今朝(昼過ぎだけど)起きたときに思ったのは「今日はやめておこう」という考えだった。

 結局のところ、自殺とか、逃避行とか、僕にとっては一過性の考えなんだと思う。少し冷静になると「現実的に考えろよ」とか「おとなしく入学に向けて勉強しろ」とか、そういう考えが浮かんでくる。

 んで、ぐるぐる考え出す。「死ぬ」と「生きる」の二つの道の岐路に戻って、二つの見えない先の方を見ようとしている。「考えるより先ず行動」という言葉を聞くが、まさにその通り。「今日は何もしなかったな」とか、「死ぬんだったら別に勉強しなくてもいいよね」なんて考えちゃったりして、色々思案に暮れてはため息吐いて、その繰り返しが延々と続くんだから、まずは考えるのではなく行動をすることが大事なんだろう。そして、その行動の中で何かを発見して、それが生きていく中での夢中になれることなら、なおさら生に希望が持てる。だから「先ず行動」なんだと思う。少し前までは、僕もこの考えを軸に勉強に励んでいたんだけどなあ。

 

 

 

自殺とか、決意とか

 はじめまして。

 どうも私は、自殺願望があるようだ。

 日々生きていく中で、気づけば自殺を考える瞬間がある。残された両親や親友がどんなことを考えるのか、想像している。それは、精神的に参っているとき。考えにふけているときにふと、訪れる。

 

 私は現在20歳。大学一年生だ。昨年の4月に現役入学したものの、同年9月頃から休学を申請し、約1年程、実家で過ごしている。バイトもせず、勉強も殆どせず、社会的な活動を何もせずに過ごしている。

 人と声を交わすのは、SkypeやDiscordなんかの通話ソフトで高校時代の友人と会話するときや、買い物をするときに店員と交わすやり取り、そして家族で他愛のない話をするときくらい。ネットでよく聞くような、「人と話をしなさすぎて声の出し方がわからない」なんて状況に陥ってはいないが、ふと懐かしい友人と出会った時、同年代の人たちにはいま何が流行っているのか。お酒の飲み方や、頼み方なんかがわからずに恥をかいてしまうのでは、などの思考がよぎることがある。そんな時、自分を情けなく感じる。

 友人たちには、そういった自分をさらけ出したことは一度もない。単位に追われ、課題に追われ、さりげなく、忙しいなあ、彼女が欲しいなあ、なんていいながら、話に花を咲かせる。そんな大学二年生を演じている。

 

 約1年程、本を読んだり、ゲームをしたり、適当に外をブラブラしながら、惰性で過ごしていた。そして、今年の9月頃。ふと、IT系専門学校へ入ろうかと考えた。かねてから情報系の勉強や仕事には興味を持っていたのだ。我が家は裕福であり、学費もさして問題はなかった。

 ただ、大学を辞めることには、先の見えぬ恐怖があった。「大学中退」という言葉が、常に私の頭の中でぐるぐると回っているのだ。学歴。履歴書。就活。大学を中退して上手くやっていける人間が世にどれだけいるのだろうか。既定のレールから外れた人間は、レールの端、崖っぷちで歩くことを強いられている。

 気分が鬱でないときは、今後の人生について前向きに考えることができる。ここ最近、ずっと調子が良かった。大学中退を本気で考え、9月からほとんど「鬱でないモード」であった私は、来年から専門学校で頑張ろうと意気込んでいた。

 大学入学当初、法学部生であった私は、入学前に予想していた勉強内容と、実際に行われる講義の内容とのギャップによって、勉強のモチベーションが著しく低くなっていた。同じ轍は踏まぬと、9月下旬頃、私は専門で指導される勉強と、それを学ぶことで取得できる資格の参考書を買った。入学前に軽く内容に触れることにしたのだ。そして、これは自分の学びたいことだと確信を得た。昨日に至るまで、少しずつ勉強もした。

 先ほど、親と軽く口論をした。そのときふと急に、気分が「鬱モード」に切り替わるのを感じた。そして同時に、全てがどうでもよいと感じるようになった。死んでしまおう、自殺してやろう、と。

 あれだけ意欲的であった勉強も、専門学校に入って人生再出発してやろうという気も、なにもかもが失せて、どうでもよくなる。自分でも恐ろしいほど、簡単に消えてしまった。

 こんな風に育てた親が悪い。環境が悪い。運が悪かった。なんて、自分の人生の責任を自分の外に追いやって、いま、私は死を決意しつつある。

 

 なんとなく、久しぶりにブログを書いてみたくなったので、書いてみた。書きたいことを書き殴って、非常に読みにくいとは思うが、許して欲しい。

 これを書いている途中、少しずつ頭が冷静になっていくのを感じた。死の決意、なんて書いてみたが、死ぬ勇気は徐々に薄くなっている気がする。

 これからも、少しずつブログで感じたこと、考えることなんかを書いていこう。気が向いたら。